賃金業法は不当な政策、かつ憲法違反

「目的」に対し、合わない「手段」
今回行われた貸金業法の改正は、業界側にも問題があったことは否めないが、政治的には不当な政策であり、あきらかに憲法違反の側面のある改悪だと考える。どういうことかというと、今回の法改正では「多重債務者を生まない」ことがその立法目的だとされ、上限金利が引き下げられた。ならば、多重債務者を生んだ原因が金利であることが証明されなければならない。ところが、そういう検証もない。

実際に金利が多重債務の原因であるとするならば、現行金利のもとでは、すべての債務者が多重債務に陥っていなければ筋が通らない。むしろ、多重債務の主たる原因は当事者本人の性格や生活態度、さらには借入総額を認識しづらいリボルビング返済方式、安易に借りやすい宣伝と自動契約機にあるといわれている。それらの点に合理的な対策を立てることで十分目的を果たすことができたはずなのに、金利を下げてしまった。

今回の法改正の「手段」として採用された金利規制が、「目的」である多重債務問題を根本的に解消できるのであれば正しい政策だといえるが、そこに大きな疑間を抱かざるを得ない点で不当な政策だと考える。

また、公権力が立法というかたちで動き、社会を守るために国民の自由を制約する場合、本来、必要最小限の規制でなければならない。今回の場合も全体の約2割の利用者が多重債務者であるのであれば、その2割の人が救済され、残りの8割の人はいままでどおりに利用ができてしかるべきだ。ところが、今回は利用者の大半が市場から閉め出されることになってしまう。これはアメリカの判例にもありますが、オーバー・ブリード(過度に広汎な)人権制約としてあきらかに憲法違反といえる。また、消費者金融は日本経済の毛細血管にたとえられるように、銀行では対応できない庶民の資金需要に応えていた。そのシステム全体を崩壊させてしまうような今回の政策は、政治的にもけっして正しいとはいえません。

侵害されている貸金業者と顧客の人権

またこうした政策が、既存の真面目な中小の貸金業者を廃業・転業に追い込む結果を招いていることにも問題がある。つまり彼らの営業の自由を害し、さらには貸金業者の純資産を定めた財産的基礎要件の規定は、差別で平等権の侵害、また、現実に資産を減らす財産権の侵害、極端な場合には生活の基盤を奪い生存権を脅かす人権問題をはらんでいる、その点においても不当な政策だといわざるを得ない。

そしてさらに問題となるのは、新法の施行で閉め出されてしまった資金需要者の動向だ。既存の業者が廃業したとしても、この小日、短期、無担保という古典的な資金需要はけっしてなくなることはないでしょうから、必然的に、市場には高金利で違法な取立てが常態化している「ヤミ金融」が跳梁跋扈し、そこに資金需要者が流れることが予想されます。かえって多重債務者問題がヤミに隠れ、状況はさらに悪化する恐れがある。消費者金融市場の利用者をヤミ金融の餌食にしてしまう危険を帯びている点においても人権問題といえる。

今回の立法は、このように、政策として不当であるだけではなく、法的にも立法権の濫用により、既存の貸金業者と顧客の人権が侵害されるという点で憲法違反だといえるのだ。

さらに大きな問題は、正しい立法をなすべき国会がまったく機能していなかったということだ。そして、その部門の専門家である行政もまったく機能していなかった。彼らは専門家集団であるにもかかわらず、立法を正しくサポートすることができなかった。こうしたことに鑑みても今回の貸金業法の改正は日本の民主政治、専門行政が機能しなかったきわめてまれで、そして恐ろしいケースであったといえる。

過払金返還請求の司法判断は立法権の剥奪

説得力のない最高裁判決
業界の多くの人たちが、2006年1月13日の最高裁判決が出たことで、"過払金返還請求に公的な正当性が認められてしまったからもうどうしようもない"という趣旨の発言をしているが改めてその判決を読んでみると、じつはあれは説得力に欠けた代物だということがわかる。判決は「借金をして月々の返済が滞った場合には、全額を返済するという不利益が生じる期限の利益喪失条項が、『強制』にあたるから弁済として認めない」と指摘しているわけだが、社会生活をおくる上では、契約における「約束は守れ」という自然な心理的圧力はあらゆる場合にも存在し、これを法学上「脅迫」の類を指す「強制」とは呼ばない。「約束を守らないと不利益が生じるから約束は守らなければならない」、こうした自然な精神状態ですべての社会秩序は成り立っているのだから。

借りることは「時間の利益」を買う取引き

そもそも借金をするということは、今この金額が必要だが、今持ち合わせていないから、借入れ、今使用し、期限までに返済するという「時間の利益」を買う取引きであって、その得られた利益を金利で買う仕組みだ。だから金利の支払いを怠った場合に時間の利益を失うということは当然のことだ。それを「違法な強制」とするならば、世の中の契約不履行におけるペナルティの存在はすべて違法な強制ということになってしまう。

つまり、時間の対価である金利が支払われなかったならば、当然のこととして債権者は時間を待ってあげる理由はなく、全額の返還を請求することは認められてしかるべきだ。

主権者、国民の直接代表である国権の最高機関「国会」が制定した法律を、裁判所がねじまげて解釈してよいはずがない。こうした司法の行為は立法権の剥奪でもあり、きわめて理不尽といえます。本来、判決は当事者にしか適用されないものだから、その意味でも、最高裁の判例が出たからといって業界全体が、もうこの問題はおしまいだと絶望することはないはずだ。

民主国家である以上、立法の試行錯誤はあたりまえ

理不尽な解釈ができない新たな立法を
わが国は、三権分立体制をとっていて、けっして司法府が支配する国家ではない。主権者・国民が最上位にあり、国会が法律をつくり、内閣がそれを執行する。それについて紛争になった場合に限り、最高裁がその法律の解釈を確認する関係になっています。つまり、1つの判例が不合理だと主権者・国民が気づいた場合には、それに対して対処をすればよいわけだ。

今回の最高裁判決には2つの対処方法が考えられる。1つは判例変更を勝ちとること。しかしこれは時間がかかるうえに、特定の個人に負担がかかり過ぎる。そこでもうひとつの方法は、今後そういった理不尽な解釈を行い得ない明確な法律を新たに制定することだ。これは何も特別なことではなく、三権分立制度のあり方の基本といえることだ。

不都合があれば再改正を

同様に、今回の新貸金業法においても、現行法のままでは不都合が生じるのであれば、その立法を修正すればよいわけだ。国家において、まずはもともと何もなかったところに、ある立法が行われ、それが不十分であればその立法を修正する。民主主義の歴史を振り返るならば、こうした立法の試行錯誤の繰り返しで今日がある。貸金業法も冷静になってみたときに、信用収縮が実害となって目に見えてきたならば、改めてその再改正を検討することは民主政治においては自然で正当なあり方だといえる。

業界が反省しなければならないこと

安易に借りやすい空気をつくらない
ただし、業界側もなぜこのような状況が生じたのか、冷静に反省すべき点は反省しなければならないと思う。本来お金を「借りる」ということは緊張感を持ってしなければならない行為のはず。けっして安易な空気をつくってはいけない。銀行のATMで自分の預金を降ろすのとは状況は異なる。

その意味で、業界が自動契約機やATMを必要以上に普及させ、さらにはCMなどで安易に借りやすい雰囲気を助長してしまったことには問題を感じる。

こうなった背景には、相次いで大手企業が株式上場し、実績偏重のあまり規模を拡大せざるを得なくなってしまったことで、ビジネスに無理が生じてしまったことがあるのではないかと考える。社会的に必要とされる以上に市場を拡大したことで、本来、生み出さずにすんだはずの多重債務者をつくりだしてしまった。そうした状況が社会には傲慢と映り、反発を招いてしまったことがあるのではないだろうか。店頭でお客さんの顔を見ながら融資していた本来の庶民金融としてのビジネスモデルに立ち返るべきだと考え る。

現場感覚を持って的確な情報発信を

また、消費者金融の利用者というのは、2000万人いるといわれていますが、それでも日本全体ではマイノリティ(少数派)の集団だ。彼らが声をあげて助けてくれることはまずないから、業界自身よほど明確に理論武装しないことには、世論に守ってもらうことは難しい業界だ。

世間に業界を正しく理解してもらうためにも、筋を通してきちんと解説できる人が、明快な教材を持って、きちんとしかるべき政治家、マスコミに説明して回る、そういう現場感覚を持って対応することもこの情報化社会においては重要。これまでは、そういった的確な情報発信があまりにも不足していたように思う。

現在、厳しい経営環境に立たされている貸金業界ですが、そこで滅びるのならば、それは時代が必要としていない業態であったことを意味する。しかしながら銀行では満たせない、無担保、無保証、少額の資金ニーズはけっしてなくなることはないはずだ。これは人間社会の自然現象のようなものだ。そうした消費者のニーズに応えるためにも、業界人として何をなすべきかを考え、理を立てて行動を起こしてほしいと思う。