全国展開を視野に東京へ進出

消費者金融市場は、1960年代半ばごろから本格的な拡大に向かいはじめた。当社も、より大きな市場を求めて東京への進出を決断した。当時企画部長だった私は、営業部長と2人で上京し、店舗に適した物件を求めてビジネス街である丸の内から大手町方面を歩いて回った。めぼしいものが見つからず、くたびれ果てて八重洲まで戻ってきたとき、ふと見上げたビルの2階の窓に「貸しビル」と書いてある。大通りに面し、以前は銀行の支店が入っていたという建物。従来の支店とは比べものにならない立地と広さで、東京展開の拠点としてはまたとない物件だ。こうして1967年(昭和42年)8月、当社の東京第1号店が八重洲にオープン。当初の融資見込みを大幅に上回る好調なスタートを切ることができ、東京という市場の広さと可能性の大きさを実感させられた。

好調の理由は、八重洲のメインストリート沿いの1階店舗であることがお客からの信用につながったのであろうということ。それ以上に、他の支店では平均102 ・2% (日歩28銭)でご融資していたところを、年利73% (日歩20銭)という当時にすれば破格の低金利を打ち出したことが大きかったのだと思う。今となれば"関西人の衿持"というものだったと思うが、関西の業者が初めて東京に出て勝負をかけ、全国展開への足がかりにしていこうという以上、思い切った手を打っていきたいという意気込みがこのとき創業者にはあった。

しかしこのころからは同業者の数も急激に増え、一種の供給過剰から不良債権の発生もみられるようになっていた。当社でも債権管理部門を設置し、勤務先の在籍確認を行うなど、現在につながる与信および債権管理体制を確立していった。

また、当時からすでにお客を会員組織化しており、取引状況が優良な会員に限定した"現金自動貸付機"のサービスを梅田など3支店に導入したのもこの時期だ。専用の機械に会員カードを入れると、封筒詰めにした2万円が自動的に出てくるというもので、いまからみれば実に原始的な仕組みのものだが、24時間・365日の自動サービスという点では、その後にやってくる本格的なコンピュータ化時代を先取りしたものだった。

高度な装置産業へと向かった消費者金融

そうした意味で、1970年代前半の時期は、消費者金融が古い時代の殻を破り捨て、近代産業へと脱皮していく過渡期ではなかったかと思う。

機械化・コンピュータ化という側面からいえば、当社が業務効率化のためにオフラインのコンピュータを各支店に導入しはじめたのが68年(昭和43年)。73年(昭和48年)に現金自動貸付機(CD)を消費者金融業界で初めて導入し、翌年には約1年の開発期間を経て本社と支店を結ぶ第1次オンラインシステムを稼動。そして79年(昭和54年)には、入出金の双方に対応する現金自動出納機(ATM)の設置を開始している。

この時期は、外資系消費者金融会社や信販、銀行系クレジット、流通系などからの消費者金融市場への参入が相次ぎ、本格的な競合が始まったときでもあります。CD ・ATMの導入をはじめ、当社がコンピュータ化に大きな力を注いだのは、業務の合理化ももちろんですが、利便性と企業イメージを高めることによって顧客満足度を上げ、ますます厳しくなるであろう競合に打ち勝っていくという目的がありました。70年(昭和45年)ごろから銀行のCD ・ATM化が進み、機械の価格がかなり下がってきたことも私たちには好都合でした。

ATMを入れてみて気がついたことは、店頭融資に比べ1回のご利用額が少なくなるという興味深い事実だった。人間の心理とは不思議なもので、借金にも多少の"見栄"が働くのか、店頭だと実際よりも多めに必要額を申告される傾向があるようなのだ。従業員相手に毎回借入れ手続きをするような面倒がなく、そのとき必要な額だけを借りていける。つまりATMのほうがお客さまの実需に応えられるということがわかってきた。

またATMだと、返済の時期や金額もお客さまが主体的かつ柔軟に決めることができる。いまではほぼ当たり前となっているこの利用方法を実現させたのが、包括契約に基づく「リボルビング方式」です。リボ方式では、お客さまごとにあらかじめ利用限度額を設定し、その範囲内であれば随時利用。返済ができる。つまり懐に余裕のあるときに返済して空き枠を広げておき、また必要になったら借りるという、お客主導による借入れ・返済、言い換えればお客の知恵を活かしたご利用を可能にしたことが、ATM導入の大きな意義ではないかと思っている。

機械化されても損なわれることのない人間味

また消費者金融各社では、1980年ごろから与信判断に"スコアリングシステム"を活用することが一般的となった。年齢や職業、勤務年数などの個人属性と、自社での取引履歴情報や個人信用情報機関から得られた情報などを基に、お客さまの信用度を点数(スコア)として算出するもので、確率統計論に基づいた科学的で緻密な与信手法だ。かつての与信判断業務においては、担当者の経験が大いにものをいったものだが、コンピュータが発達し膨大な顧客データの蓄積と論理的な手法が確立されたことで、人間の感情や主観が介在しない、客観的な与信が可能となってきた。これにより、個々のお客さまに精度の高いクレジットラインをご提供できるようになったことは大きな前進だった。

消費者金融業については、担当者がお客さま一人ひとりの状況に応じたきめ細かい与信判断を行う"人情"の篤さがしばしば語られるところです。 一方で、近代ビジネスとしての消費者金融に対しては、営業面はもちろん、経営面においても合理的かつ客観的であることが何よりも求められる。では消費者金融は、近代化を遂げる過程で人間味を失っていったのかといえばけっしてそうではない。人間味とは、債権管理や回収の場面で存分に発揮すべきものだからだ。返済が滞っているお客について、家計のあり方などをご一緒に見直し、返済計画を建て直すための最善策を考えていくことは、担当者が人間だからこそできることだ。昔に比べれば債権管理・回収業務もずいぶん合理化されてはきたが、担当者がお客さまの置かれた状況を勘案し、個別にじっくりと対応することは今も昔も変わりません。業界を取り巻く法的環境が複雑化している現在、こうした面での社員のスキルや専門知識を高めるための教育は今後さらに重要性を高めていくものと思う。

同志的経営者たちと成し遂げた業界組織づくり

消費者金融業界の近代化を語るうえでは、高い志を持った同業者との強い結束と協力によって成し遂げてきた、いくつかの重要な事項についてもぜひ触れておかなければならない。消費者金融業界は、1960年代半ば以降から拡大を始めたと申し上げましたが、都道府県知事への届け出だけで簡単に開業できたため、中には悪質な融資や回収行為によって業界の社会的イメージを損なう業者も存在していた。69年(昭和44年)大阪を地盤とする11の消費者金融業者が集まり、この業界を健全に発展させていくための全国的な協会組織として設立したのが日本消費者金融協会(JCFA)です。JCFAは、会員における貸出上限金利の引き下げや倫理規程の策定、各種研修の実施、アメリカ市場への視察、多重債務者の救済、消費者教育など、任意団体ではありながら、消費者金融業界をリードする存在として積極的な活動を展開していった。

もうひとつは個人信用情報機関の設立です。60年代後半ごろから、お客の延滞などに関する情報交換会が各地で自然発生的に行われるようになり、JCFAのメンバーの間でも、お客さまの情報交換が議論された。当初は競合相手に顧客情報を提供することへの抵抗感もあって、不良債権リストの交換から始まったのだが、より適切な与信判断のためには正常顧客の借入残高まで知る必要があるという声が高まり、貸付日と融資額も回答し合う方式に変更。これを発展させるべく、さらなる検討を経て72年(昭和47年)8月に大阪に誕生したのが株式会社レンダースエクスチェンジ(LE)、すなわち消費者金融業界初の個人信用情報機関だ。そしてこれを機に、全国各地に同様の情報機関が誕生していった。