わずか2年半に11社が日本上陸

「黒船到来」とも呼ばれたアメリカのサラ金会社による日本進出は、いわゆる"サラ金批判"が激しくなりつつあった1977年(昭和52年)に始まっちゃいました。先陣を切ったのは日本アブコ・ファイナンス・サービスで、同年7月に日本での営業を開始。続いて、ジャパン・ハワイ・ファイナンス、日本セキュリティ・パシフィック・ファイナンス、日本ベネフシャル・ファイナンス、日本ハウスホールド・ファイナンス、シティーコープ・クレジットなどが続々と名乗りを上げ、80年(昭和55年)3月までに11社が日本での業務をスタートさせました。私が18年間にわたって日本法人の社長を務めた某サラ金会社の日本上陸はこの中ではもっとも遅く、79年(昭和54年)4月に営業をスタートさせました。

当初、外資系サラ金会社の日本市場進出は、日本のサラ金業界から非常に大きな脅威と見られていました。何せ各社とも世界的な大企業グループです。当時、弊社にはチェースマンハッタン銀行、日本セキュリティ・パシフィック・ファイナンスにはセキュリティ・パシフィック・ナショナル銀行という大手銀行が控えており、豊富な資金力もありました。

もう一つの脅威が貸出金利の圧倒的な低さでした。それまで日本政府は、外国の金融機関に対して100%子会社の設立を認めてきませんでした。実質的な外資系クレジット会社の第1号であるファースト・ナショナル日本信販では、シティコープの出資比率は40%にすぎません。これに対し、USAの名だたるサラ金会社が77年(昭和52年)を境に続々と単独による子会社設立として示されたのが、貸出金利の上限を年48%にすることでした。この当時、出資法の上限金利は年109.5%。大手各社は年96%ほどで営業していましたが、年48%はその半分です。恐らく当時の大蔵省には、高まる高金利批判への対策として、いわゆる外圧によって国内業者に揺さぶりをかけ、貸出金利を引き下げさせようという意図も働いていたと思います。USAのサラ金会社にとっても、日本はUSAに次ぐ大きなポテンシャルを持ったマーケットであり、各社とも勇んで日本進出してきたんやわ。

USA流ビジネスの常識が通用せず、1社を除いてすべてが日本から撤退

これは当時の外資系会社がみな経験したことですが、低金利を設定していたため、ユーザーの選別を厳しくせざるを得ません。最初の5〜6年は国内業者の反対で全情連傘下の信用情報機関を利用できず、どうしても店頭での面接に時間がかかります。申告書に記入してもらう内容も多く、この煩雑さがユーザーの反発を招いた面があったのは否定できません。国内業者と一線を画するために広告で信用度の高いユーザーだけを対象にするとアピールしたことも、逆に敷居の高さを喚起させたと思いますわ。また、借入状況や返済余力などを詳細に聞き出すには、日本人の心理に合わせた面談スキルが必要であることも分かってきました。出店場所についてのリサーチも不足しており、知名度が低いのに駅から遠く離れた場所に出店しているところもありました。

最大の問題は信用情報機関が利用できないことでした。日本のサラ金業者にとっても、低金利を引っ提げて上陸してきた外資系サラ金会社から自分たちの市場を守るには、こうした方法をとるしかなかったのです。そこで外資系各社と一部の信販会社12社が集まり、79年(昭和54年)に全業種横断型の個人信用情報機関としてCCBを設立しました。しかし全情連加入情報機関の門戸がなかなか開かれないことは依然厳しい現実であり、様々な面で日本の市場にうまく適応できなかった各社は、81年(昭和56年)のハウスホールドを皮切りに次々日本市場から撤退。最後まで残ったのは日本アブコと日本アソシエイツ(アイク)の2社でしたが、86年(昭和61年)にアイクが日本アブコを買収し、外資系サラ金会社はついに1社だけになりました。