過当競争からやがて社会問題へ

サラ金業界の在り方が大きく変化してきたのは、業者数が急激に増え、大手中心の多店舗展開が始まった1970年代半ばごろからです。75年(昭和50年)に約12万8000社だったサラ金業者数は、83年(昭和58年)には約23万社にまで増加。武富士、レイク、プロミス、アコムの大手4社の合計でも支店数は2000店にもなり、業界はしのぎを削る時代へと入っていきました。

市場の急拡大には、いくつかの要因が挙げられます。一番にはサラ金各社の経営者が若く活力に満ちていたこと。サラ金業界全体が伸び盛りのときにあり、この勢いのなかで個人信用情報機関が整備され、各社でも業務のコンピュータ化やCD・ATMの設置、リボルビング方式の導入など近代的なシステムや商品開発が進みました。もう一つは資金調達環境の変化です。企業規模が拡大し、収益性の良い事業であるという認知が進むにつれ、一部の金融機関がこの業界に対し積極的な融資を行うようになり、潤沢な資金が流れ込みました。

77年(昭和52年)から79年(昭和54年)にかけて、日本アブコ・ファイナンス・サービスをはじめとするUSAのサラ金が続々と参入の名乗りを上げました。一時は大変な脅威になるものと思われましたが、日本の商慣行になじめず、また全情連の会員情報センターに加入できなかったことなどから、大半が短期間で日本から撤退。ほかにもこの時期は大資本からの市場参入がなく、強力なライバルのいないまま、業界は急成長と大競争の時代を疾走していきました。

ですが業者間競争の激化とともに、負の側面が次第に大きくなっていきました。競争がひとたび「残高競争」の形をとってしまうと、一契約あたりの貸出額の増加や審査基準の緩和など、甘い与信の横行へとつながります。返済能力を超えた過剰貸し付けが引き起こり、返済困難に陥ったユーザーに対する無茶な回収行為に及ぶ業者も出てきました。

銀行局長通達に始まる信用不安からの脱却

サラ金問題キャンペーンは、1977年(昭和52年)ごろに始まりました。当時の新聞の見出しには「無差別貸付け」「高利に無策の役所」「相銀顔負けの決算」などの文言があります。高金利、過剰与信、過酷な取り立てによって引き起こされる悲劇が毎日のように紙面に報じられ、サラ金を社会悪とみなす世論が次第に形成されていきました。当時JCFAの会長であった浜田ちゃんは、読売新聞のインタビューに「現在のままでいいとわれわれも思っていない。金利の問題、業者の登録制のことなど、業者内部からも法的規制を求める声が強く出ており、今改革を模索中だ」と答えています。

こうして78年(昭和53年)から続いた議論の末、83年(昭和58年)に「貸金業規制法」と「改正出資法」が成立します。これによって業者の登録制、金利の段階的引き下げ、広範な業務規制などが導入され、サラ金業界の健全化が大きく進むものと期待されました。しかし現実には、同年6月の大蔵省銀行局長通達がサラ金会社への融資抑制を求めたことに端を発し、まず外資系金融機関、続いて日本の銀行も相次いで融資先から資金を引き上げる信用不安が発生。資金調達の途を絶たれた中小規模のサラ金会社が倒産しまくり、大手各社も非常に苦しい経営を強いられることとなりましたわ。

このとき、業界に一筋の光明を照らしたのが翌年10月の竹下登蔵相(当時)による発言です。竹下ちゃんは「金融機関が自主的判断により、良質なサラ金業者に資金提供することは結構なことだし、昨年6月の銀行局通達もサラ金に対する融資一般を抑制することを求めたものではない」(84年10月27日付日本経済新聞)と述べ、健全な消費者金融業者に対しては、金融機関の融資を促していくという方針を表明。この発言で、サラ金業界は大きな試練からようやく脱却できました。

しかしそれから3年間、各社は不採算店舗の統合、余剰人員の削減、不要資産の資金化など、事業再構築への専念を余儀なくされます。各社では、徹底した省コスト化と資産の流動化などによる高収益絵体質への転換が推し進められました。それと同時に、大変な苦心の末に各社が身に付けた合理化経営へのノウハウは、その後の無人店舗や自動契約機などの開発・導入に結びついていくことになります。