都市部より遅れて始まったサラ金ビジネス

父の代から岩手県盛岡市で金融業を営んできた弊社がサラ金業を始めたのは1983年(昭和58年)の貸金業規制法施行より後のことした。それまではほとんどの地方都市のサラ金同様、多様な資金ニーズに応える"よろず金融″的な存在でした。

終戦後から高度経済成長が始まる1960年頃までの日本経済は、産業復興の掛け声の下に慢性的な資金不足状態にあり、中小零細の事業者は私たちのような街金から「日掛け」という形で当座の必要資金を調達していましたわ。日掛け金融は、事業者の日々の売上の中から少しずつ返済してもらうというシステムなので、比較的金利が高い割には借り手の返済負担が少なく、貸金業者の方から集金に出向くため、小規模な製造業者や商店主などには非常に重宝されていました。貸し手側も、回収した資金を次々と別の貸付けに回せばいいので、効率的に利益が上げられるというメリットがあります。当時まだ小学生だった私も稼業を手伝い、自転車で集金に回ったものです。

しかし高度経済成長期に入ると一転、一般サラリーマンからの借入れ申込みが増えるようになりました。池田勇人内閣の「所得倍増論」として知られる長期経済計画によって国民所得は急拡大し、国民の生活水準も目に見えて向上しました。耐久消費財を買い求める人々のために月賦販売などが普及し、サラリーマン層の多い都市部を中心に、現在に近い形のサラ金会社が続々とでき始めた時代ですわ。

それでもこの当時、父は私に「サラリーマンには金を貸したらアカンぞ」と言っていました。日掛け金融は日銭の入る事業者が相手だから成り立つ商売であり、月給取りに月1回の返済を求めていたのでは利息が膨らみすぎてしまいます。父の跡を継ぐと決め、私が正式に入社したのは1968年(昭和43年)のことですが、それから15年以上にわたり、弊社がサラ金に主軸を移すことはありませんでしたな。ユーザーは依然として地元の中小零細事業者、あるいは農家や漁業関係者などが中心です。貸付額もさほど大きいわけではありませんが、まれに返済が滞り、債務名義をとって強制執行による請求権の行使に踏み切ることもありました。

盛岡や遠野付近には「南部曲り家」という、土間をはさんで母屋と馬屋が一体となったL字型の住居に家畜と一緒に暮らしている農家が昔から多く、動産として馬や牛、豚などの差し押さえに行ったこともあります。昔は、執行動産に差し押さえ札を貼ることが一般的でしたが、さりとて動物の体に札を直接貼るわけにもいきません。裁判所の執行官に頼んで、差し押さえる牛や馬が識別できるようにカラダの模様までそっくり絵に描いてもらい、その絵に差し押さえ札を貼りつけたものを、人が来ても目立たないよう、壁のカレンダーの裏側などに隠すように貼ってもらったこともありました。さすがに鶏をまとめて差し押さえようとしたときには「一羽一羽区別がつかない」と執行官に断られたというジョークのような話もあります。70年代前半ごろまでの地方都市では、何事につけこんなのンびりした商売をしていました。

簡単に返済事故を起こさせない仕組みがあった古き良き時代

そんな地方都市でも、前述したように高度経済成長期を迎えるとサラリーマンの方が「急にお金が必要になった」と言って訪ねて来られる機会が徐々に増えていました。まだまだ一般ユーザーが銀行で資金を借りられず、結果的に我々のようなところが受け皿となっていたのです。

そういうときは、例えば次の給料日まで15日あれば、1日1000円として1万5000円をお渡しする。そして給料日に全額を利息を付けて返済してもらい、さらに資金が必要なら次の給料日あでの分として3万円をお貸しする。文字通り、次の給料日までのつなぎという考え方で資金をご用立てしていました。大口融資の場合、借入れ期限1年で12万円をご融資し、毎月1万円ずつの元利金を返していただく元利均等返済方式も取り入れていました。実際、こうしたサービスを提供することで多くのサラリーマンの方に喜んでもらうことができ、貸倒もほぼ皆無という状況でしたわ。後に、ある大手サラ金会社の幹部の方に創業間もない1960年代半ば頃の様子を尋ねたところ、やはり1回の貸付額はせいぜい2〜3万円で、ほぼんど回収のロスはなかったとのことです。日本の経済が大きく発展していく時代にあって、次第に活力をつけていく国民生活を支えていたのは、紛れもなくこうした小口の資金ニーズに応えていたサラ金業者ではなかったかと思います。

この時代、返済トラブルが非常に少なかったのは、当時の出資法上限金利が年109.5%と高く、返済が遅れると利払いの負担が大きくなるため、貸金業者側も自分たちのユーザーが破綻しないように互いに配慮し合っていたからです。すでに他社借入れがあったユーザーの場合は、それ以上貸さず、とにかく債務の軽減を優先してもらうよう働きかける。そうすることで自分たちの市場を守り、ユーザーを守っていくという暗黙のバランス感覚が機能していたのだと思います。

借り手の側でも、返済が滞るようなことがあれば即座に親族会議が開かれ、親戚の誰かが立て替えてでも弁済するというケースが少なくありませんでした。地域社会の共同体意識や、恥の感覚がまだ強かった時代のこと、「借金して返せなかったなんて近所に知られたら恥ずかしい」という意識が、容易に不払いを発生させない遠因になっていたのだと思いますわ。